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10 - decade - [remembrance 20070325]

10年経ちました。

あの日から。

Remembrance 20070325

takatsue1_20070325.jpg

この写真は、2007年3月25日の早朝、福島県は会津高原にある「たかつえスキー場」の駐車場に到着したときの写真。スノーボードに来たがこの日の写真はこれ1枚。


この日の記憶は、自分は東京から千葉の雪山仲間と一緒に、このゲレンデに到着し、関東周辺の雪山仲間と現地合流して滑った。最初の事がかすかに残っている以外は何も覚えていない。


この日、たかつえスキー場で、みんなとキッカーを飛んでいた。

何本か飛んだのかな?みんなが飛び、自分の番で下からキレーに飛んでいたけど、なかなか下まで降りてこなかったので、心配して上へ見に行くと、ぶっ倒れて血を流している自分がいたと。

その状況は自分は当然、見ていないけれども、頭から血を流し、耳からも血とか髄液とか漏れていて、すさまじい状況だったとか。1度、レスキューが来たけど、あまりにもの状況に、引き返し、別の装備を整えて再度、来たとのコト。それから救急車で救命救急の病院へ搬送された。その際も道路が渋滞していた為、救急車を2台乗り継いだとか。

運ばれた病院は、会津中央病院( http://www.onchikai.jp/ )のICUに。
脳神経外科では、東京大学から先生が来ているらしく、最初に処置してくれたのもその先生だったらしい。
http://www.onchikai.jp/departments/neurosurgery


1. 頭蓋底骨折
2. 外傷性くも膜下出血
3. びまん性軸索損傷
4. 高次脳機能障害:記憶障害
5. 髄液漏


なんか、聞いたことのない症状名もいっぱい。

「びまん性軸索損傷」は、受傷から24時間以内に意識の回復がなくて脳幹の障害が認められる場合は、死亡率が約6割で、生命が助かっても意識障害などの後遺症が残るとか。自分の場合は、記憶障害だから自覚はないけど、意識は回復していたから死んでいないのかもな。そして、幸いにも大きな後遺症もなく10年が経過した。


会津中央病院では、ICUを出たあと、一般病棟へ移り、しばらくしてから富山の高岡市民病院へ転院した。
しばらくは、リハビリという事が中心で、記憶力の回復に関する事をやっていた気がする。その時の記憶も曖昧で、お見舞いに来てくれた人もいまいち覚えていない。一晩寝て、次の日、起きると記憶がなくなる。そんな高次脳機能障害の記憶障害。また、尿崩症という症状もあり、水分を接種してもすぐ排出する為、しばらく薬でコントロールしていたっけ。


5月2日に高岡市民病院を退院し、新湊のばーちゃん家でしばらく静養したのち、東京へ戻った。


senbatsuru_20070711.jpg

雪山仲間からもらった千羽鶴。
いまでも部屋に飾ってあります。

ほんと、この時、みんなにはお世話になり過ぎるぐらい助けてもらったな。
自分が富山に戻ったため、なかなか会うコトもなくなったんだけど、いつも心の中では感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう。

そして、東京へ戻った後も何かあったときの為に、当時住んでいた、世田谷区新町1丁目から行ける範囲で、脳神経外科の病院を探した。たまたまスノーボード仲間に脳神経内科のナースをやってる娘がいて、先生にいろいろ聞いてくれて、その中の1つ、港区の御成門駅近くにある東京慈恵会医科大学付属病院( http://www.jikei.ac.jp/hospital/honin/ )へ行った。


いろいろ診断してもらい、歩いているとカラダがふらつくといったコトで、耳鼻咽喉科を紹介してもらい、レントゲン撮ったり、いろいろ診断してもらった結果、左耳の聴力がほとんどなくなっていた事実が判明。
「耳小骨離団」という症状で、鼓膜と耳小骨という小さい骨が響くことで人間は音を認識できるらしい、その耳小骨が折れかかっていたと。手術をすることにより、回復するとのコトだったので、少し躊躇した後、手術する事にした。

この左耳の不具合は、高岡市民病院でも再三にわたり訴えていたんだけど、退院するまでの間、結局、何もしてくれなかったんだよな。入院中、体温を測る際、ピピっていう検温終了をお知らせするアラームが全然聞こえていなかったので、訴えていたんだけど、なにも対応してくれなかったなーっというのが思い出にある。


で、手術をすると、耳の後ろを開き、耳小骨を確認したが、見当たらなかったらしいが、くっつけておいたとの先生の話し。後から調べるとこの慈恵医大病院は、耳鼻科の日本で発祥の病院だったとか。


jikei-idai-hosp1.jpg

jikei-idai-hosp2.jpg

そんな手術入院した病室・病院の窓からの景色がこんな写真。
東京の真ん中にあるから、ビルがいっぱい。東京タワーまで見える病院w


この後、2007年9月3日に社会復帰。笑

2007年3月25日の直前、赤坂の会社を退職し、渋谷の会社へ転職が決まっていた。
だけど、突然の怪我で入院。音信不通となり、一度は渋谷の会社とは、転職の話しは破断となる。
しかし、その後のやり取りで、なんとかモロモロが落ち着き、体力も回復し、働ける状況になったら連絡くださいとのことで、なんとか就職先も落ち着いた。


この入院の期間、いろんな事で不安に襲われ、ほんとにこの先、暮らしていけるのだろうか?と毎日思っていた。それは、職が無くなった状況で入院&自宅静養だったから。そして、次の職も決まらず、どんどんお金が無くなっていったから。

「マズローの欲求段階説」というモノがあるけど、まさにそんな感じだったな。まずは「生理的欲求」「安全の欲求」を満たし、次に来るのは「所属の欲求」。これはどこにも属していないと不安になるんだねー。
会社に属する安心感というか、毎日の暮らしの軸ができたという安心感が社会復帰したことで満たされた気がする。


ただ、良くか悪くかは解釈の仕方であるが、転職を決め、退職を告げた直後に入院したので、しばらく、仕事を気にせず、安静に静養できた。3月25日から9月2日の約5ヵ月間の「無職」時間。東京・世田谷で無収入のまま約5カ月もいると、どんどんお金が出て行ったっけ。でも、その時、その瞬間に経験できた東京暮らしは、よい経験だな。


東京での仕事は、赤坂の会社も渋谷の会社も大手広告代理店からの仕事が多く、マーケティングに関する事からプロモーション、社内のシステムデザインやケーパビリティ資料の作成などなど、自分がいままで経験した事のない業界・仕事のジャンルで、毎日刺激があり、ハードだったけど、愉しい日々だった。

ただ、いろんな人がいる業界なので、渋谷の会社で働いているとき、ケガのコトとか、記憶が無くなったことが原因となり、精神的におかしくなった。


「何でこの会社で働きたかったんだ?」


この答えは、記憶がなくなる前、自分が転職しようと思い、決めた会社だからという事だけで、まずは働く場を安定させたかっただけだったのかもな。赤坂と渋谷、どちらの会社が良かったか?と言うと、赤坂の会社での仕事、働き方かもな。


結局、鬱っぽくなっていたので、精神的にも衰弱していた。
慈恵医大病院の神経内科で診察も受け、精神を安定させる薬を処方してもらいしばらく飲んだ。

広告業界にはこういった人はよくいるらしいという事も誰かから聞いたなー

そんなこんなで結局、精神的にヤバいという事で、カラダを休めれ!って感じで渋谷の会社を退職。


このコトで、以前から富山に戻って、うちの会社を見てくれ!っと言われていた自分がイチバン最初に働き、自分の事をよく知っている人から連絡があった。

ただ、自分の中にある富山県内にある企業の文化というか、仕事の環境が頑張っても「良いように使われるだけ」というイメージが強かったため、即座に富山に戻ることを選択しなかった。

自分は高校卒業して、即働いた、

会社の中では異色な経歴を積み重ねていき、最後らへんは、グループ再編とか、上海工場の設立といったプロジェクトに携わったけど、行っている仕事内容・質量ともに他の人よりずば抜けて良く、評価も高かった。だけど、その評価が賃金に反映しない。高卒だと賃金テーブルというか、制度的に大幅に変化することはない。そんな仕事環境に嫌気もさしていた。

これが自分の中にある「富山県の企業イメージ」。

だから、富山から東京へ出て、しばらく時間は経過していたが、そんな文化のままだろうと思い、富山には戻りたくなかったのが本心。渋谷の会社を退職した後、リクナビでいくつかの会社に応募し、書類審査が通り、面接には何社かいった。だけど、決まらなかった。どんどん貯金も底をつきそうになってきたタイミングで、富山に戻って働くコトを選択した。完全に本位ではなく、未練が多い東京撤退だったかな。


そして、富山に戻り、働き、先日の3月1日で、早くも7年が経過した。

さまざまな部分は変えてきたし、それなりに普通な企業の仕組み・ICTシステムも入れ替え・導入した。

が、だけど、やはり、戻りたくなかった根本の原因は、自分の思った通りで、くだらなく、自分自身の成長も意識できず、ただただ時間の浪費としか思えない日々。


目的は「カラダを癒す」コトだったので、時間の融通が利くというトコだけ。


勤める前には何度か東京から富山に戻り、その会社の幹部といろいろ話をしたけど、いま思えば、話しだけで、明確な賃金や待遇面の提示がなかったなーっと。そして、その話しの内容と実態が違いすぎて、富山に戻った3~4年間は金銭的にキツイ日々だったかな。いまもやっている仕事内容・質量に対して、低すぎる年収。

正直、10年前の方がまだ年収は高いかも。。。

そして、10年経過したいま、カラダは十分すぎるほど元気になったし、仕事内容は刺激が少なくって、正直、飽き飽きしている感じかな。ちょっと行き詰った感じがする今日この頃で、何か新しい出会いや進展を望みつつも、なかなか見いだせず、どんどん自分自身が嫌になってくる日々。


このソネットブログを始めた頃もこうだったなーっとか思い出す。


2007年3月25日のあの日より10年経過した。


怪我して、なんとか復活したけど、実はいつぶっ倒れるかとどこかで心配もあり、mixiとか、Facebookに日々のコトやその時々の感情を記録していた。そして、書くことに依存するようになってしまったのかもな。10年経過し、もう大丈夫だろ!っと思うところもあるので、そろそろいろいろ吹っ切って、新しい事に挑戦していきたいな。


少しづつでも変えていこう。そして、次のシーズン、ステップへ。


この"remembrance 20070325"もこれが最後かな。


What the next my graffiti?


decade.


remembrance 20070325 - vol.01,02,03
http://graffiti.blog.so-net.ne.jp/2007-06-13
http://graffiti.blog.so-net.ne.jp/2007-06-18
http://graffiti.blog.so-net.ne.jp/2007-07-08

0325 When ONE Year Passed
http://graffiti.blog.so-net.ne.jp/2008-03-25

Two years passed from that.
http://graffiti.blog.so-net.ne.jp/2009-03-25

あれから3年経ったか。
http://graffiti.blog.so-net.ne.jp/2010-03-25

past four
http://graffiti.blog.so-net.ne.jp/2011-03-26-1

8
http://graffiti.blog.so-net.ne.jp/2015-03-25

9
http://graffiti.blog.so-net.ne.jp/2016-03-25


remembrance 20070325
http://graffiti.blog.so-net.ne.jp/archive/c15382237-1

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